2017 年全国硕士研究生招生考试 203 日语真题
Directions: 次の文章を読んで、1~20の問いに答えなさい。答えは選択肢[A][B][C][D]からもっとも適切なものを1つ選びなさい。(1点×20=20点)
「読む」ということについてなど、だれもあまり考えてみることはしない。しかし、「読む」こと(1)真正面から取りあげて考えてみると、本当はなかなか難しいのである。かつて、ある生徒の答案があまりにも素晴らしく、(思う存分)大きく「グッド」と書いて、賞賛の言葉を書き連ねたことがある。問題文は難解、設問もその文章の思想の根っこを把握するもので、こんな問題のできる生徒がいるといいな、そう考えながら作った問題であった。ほとんどの生徒が見当もつかずにピントの外れた解答をしている中で、その答案は、的確に読み取り、確かな論理で思索し、そして完璧な内容を緊密な文体で表現していた。「グッド」は、そんな答案に(3)感嘆の叫びだったのである。それから五年後、大学院生になっている彼と会う機会があったが、驚くべき(4)、彼はそのときのことを鮮明に覚えていて、次のような話をしてくれた。僕はサッカーのエースストライカー(主力)でした。中学でも、高校でも、僕がいなければチームは勝てないと内心思っていました。ある時など、ディフェンダー(守门员)から「おまえはいいなあ、足でボールを蹴っているだけで威張っていられるんだから。おれなんか体で阻止しているのに、ちっとも認めてもらえねえや。」と嫌味を言われたこともありましたが、僕が(5)なのは当然のことだと思っていました。ところがある大きな大会への出場権をかけた試合に、監督が僕を後ろに下げたんです。僕はその理由を考えるより先に、(6)こんな大事な試合に僕を下がらせるのかと、憤然としたままゲームをやりました。ゲーム(7)勝ちました。先生は、僕を下げたこと(8)何も言いませんでした。僕の心には、憤りと不満とだれにとも知れない敵意が(9)ありました。ところがある時、突然、僕は一体チームの中でどういう存在だったのだろうかという思いが沸い(10)のです。僕は一体どういう奴なんだ、僕はどんなふうに皆に思われているのだろう、僕とは一体なんだ。そんなふうに思い悩んでいた時、先生のテストで「グッド」と書い(11)のです。この話を聞きながら、コトンと胸に落ちた(12)があった。それは、物が「見える」ためには、逆説的ではあるが、自分がないこと、己の「我」がないこと、かっこ良く言えば、自分が一個の vain(空虚)であることが必要ではないかということである。彼の場合も、自分を高しとする思い上がりを捨てて誠実に自分と向き合う気持ちになっていたからこそ、問題の文章がよく読めたのではないか。おそらく、このときの彼の心は、柔らかく伸びやかな何もない広がりであったはずだ。
Directions: 次の文章の[一][二][三][四]を読んで、21~40の問いに答えなさい。答えは選択肢[A][B][C][D]からもっとも適切なものを1つ選びなさい。(2点×20=40点)
日本には現在、朝日、毎日、読売という三大紙がある。これに、日経、産経を加えて五大紙と称する
こともあるらしい。新聞というものを、わたしはすでに数十年前からほとんど読まないことにしている。それをひそかな誇りにしている。なぜ読まないか、話は簡単である。読み比べて、何の区別もないからだ。久しく前から、新聞を作る人たちが自分は言葉のプロであり、文章を書くことによってメシを食う職業人であるという意識を、徹底的に喪失してしまった。売文業者であることを忘れて果てた。事件が起こり、その事件を二足すニは四という文体で報道するだけならば、それはジャーナリズムとは言えない。ジャーナリズムとは、文章である。もちろん、事実は伝えなければならない。が、その事実を伝えるにも無限の方法があり、発想があることを、みな忘れてしまった。二足すニは四という文章ばかりである。(ア)、どれを見ても区別のつかない新聞に、区別をつけるのはコラム(だ)である。いい日本語、面白い文章、楽しい文章、読んでも啓発される文章 そういうもので書かれたコラムがあるかないかが、新聞の生命を決定するとわたしは考える。大正末期から昭和にかけて、かなり長い間毎日新聞は薄田童の「茶話」というコラムを載せていた。当時の毎日新聞はたった一つ、この「茶話」のコラムだけで売れていたんだ。座布団サイズの新聞が、ハガキ大のスペースのコラムで売れていたのである。が、それは当然のことだったろう。その頃、まだ新聞はその文章によって読まれるという、本来の機能と美徳が生きていた。新聞を作る人の意識の中に文章を売るという意識があったのだと思われる。これに対抗するため朝日新聞が持ち出してきたのが、杉村楚人冠のコラムである。どちらかというと、わたしは薄田童の文章のほうが好きである。いま読み返してみても、なお読むにたえるユーモア、柔らかさ、清新さ、色々なものを含んでいる。こういうコラムというものが、もうなくなってしまった。あのコラムがあるために新聞を読もうという喜びが、ことごとく死に絶えてしまった。もちろん、外部の偉いセンセイたちに頼んでコラムを書いてもらう欄はいくらでもあるし、どの新聞にもある、が、その内容自体が凡庸、陳腐、お粗末・・・・・・ことごとくこれで、全然面白くない。にもかかわらず、止められないでいる。だれも読まないのに止まられないという点では、死亡広告の記事に似ている。ニュースそのものは、現代、即刻テレビで報道されてしまう。そして、口コミというコミュニケーション機関もある。従って、新聞の権利回復はいまこそコラムにかかっているのである。読みたくなるようなコラム、これが新聞なんだ。
Directions: 次の文章の[一][二][三][四]を読んで、21~40の問いに答えなさい。答えは選択肢[A][B][C][D]からもっとも適切なものを1つ選びなさい。(2点×20=40点)
一人の人が一生のうちに、何人の先生にものを教えてもらうだろう。幼稚園から始まって学校の先生方は言うまでもないが、この頃は学校外にお稽古事をするのが流行で、小さい人がピアノとかバレエとか特別の先生についている。学校を卒業したお勤めの人たちも色々先生をもっている。生花・茶道路組もあるし、手芸組、スポーツ組、実用組の人は薄記・筆記・タイプライターと何でも次々に習得しようというのもある。主婦はタイプや筆記を習っても、それを生かして働きに出るだけの時間のゆとりがないから、こういう勉強をする人は少ないらしく、スポーツもいまさらテニスは骨が折れるし、一手芸が多いだろうか。知人に生花・茶道の先生があるが、忙しい中に暇を作っては、書道・日本舞踊と習って歩く。人にものを教える商売は、つつしみがちになるので、気がぬけていけないと言う。先生と呼ばれれば、いつもどこからか多数の生徒に見られている、と覚悟していなければならぬ。「学ぶ」は「まねぶ」であって、真似る意味があるのだから、見られているということは真似られることだとまずはそう思わなくてはならない。真似られて恥をかくようなことはできないから、いつも謹んでいる。すると着物でも何でもつい地味に落ち着いたものを選ぶようになるし、気持ちもなるべく平穏にと心がけるので、いつしか年齢よりふけてしまう。けれどもお弟子さん方は欲張りで、ふけて落ち着いている先生は好きなくせに、ふけ込んで若さを失っている先生なんかは大嫌いなのだそうだ。ふけていて若々しくなくては、生徒たちに人気がないのだそうだ。難しいものだ。ものを習えば若々しく見えるという。それでその先生たちはせっせと稽古事をして、活気を絶やさないように心がけ、かつ楽しんで生活をしているのである。授業料を出す出さないにかかわらず、教えてくださいと願う以上は、教えてくれる人は先生である。でも願わないで教えてもらう縁もたくさんある。私にも学校の先生のほかに、幾人かの先生のお世話にもなり、また願わないで教えてもらった師もたくさんある。ふと読んだ本、通り掛かりで見てはっと納得した光景等々、何人の師に逢っているかと思うとき頂垂れて感謝する。その中で大きなが一人いる。死である。私は十年ほど前に父の死にあったのだが、あの死にあったのでどんなにいくつものことを教えられたか、数えることも何もできないのである。死というのは、人生の最後のところに控えた大先生であると思う。だが、この大先生にあって教えを受けるのは、一頭の悪い、しかもなまけもののみなのだ。死は師である、と私は思っている。
Directions: 次の文章の[一][二][三][四]を読んで、21~40の問いに答えなさい。答えは選択肢[A][B][C][D]からもっとも適切なものを1つ選びなさい。(2点×20=40点)
現在はどうだかわからないが、ロシアがソ連(苏联)だったころ、男の人も女の人も、一歩家を出る時は必ず、買い物袋を持っていたという。どうしてかというと、いつ、自分の欲しいものが売りに出されるかわからないからなのだそうだ。そのソ連では、街を歩いていて行列ができていると、人は必ず、とにかくその行列の一番後ろに並ぶという。何のための行列だかわからなくても、まず並ぶのだそうだ。その列は、りんごの売り出しのための列かもしれない。牛肉の列かもしれない。トイレットペーパーの列かもしれない。とにかく並んでみて、自分が欲しいものであったならば、例のいつも持ち歩いている買い物袋を引っ張り出して、その品物を買うというわけである。こういう時のために、ソ連の人はいつも買い物袋を持って歩いているのだ。この買い物袋のことを、ロシア語では「アボシカ」という。そしてこのアボシカの本来の言葉の意味は「もしかしたら•••••・」という意味なのだそうだ。私はこの話を聞いた時、ふっと自分自身の日常生活を考えた。もちろん、出掛けるごとに買い物袋を持って行く・・・・・・などということはしていない。たとえ外で何かを急に買ったとしても、日本では、その品物は袋に入って渡されるから、その必要性もないのである。確かに便利ではあるけれど、私たちは、こうした行き届いた暮らしの中で、少しずつ、何かを忘れてしまっているような気がする。人は、今日(ア)を知らずに生きている。まるでソ連の人が家を出る時のように、私たちも一日を生きているのである。もしかしたら、心が洗われるような音楽に出会うかもしれないし、人生を変えてしまうような本に出会うかもしれない。考え方を改めるような映画に出会うかもしれないし、心の支えとなるような人に出会うかもしれない。涙ぐむような光景に出会うかもしれないし、力強い言葉に出会うかもしれない。どんなものにぶつかるか、私たちは何も知らずに生きているのである。果たして私たちは、そんな大切なものに出会った時、それを自分のものにしてしまえるような買い物
袋を持っているだろうか。せっかくいいものに出会うことができても、それを自分の心の中に取り込まない限りは、ただの「いいもの」で終わってしまう。自分の心で感じ、自分の頭で考え、それを自分のものにしなければ、何もならないのである。品物は、確かに袋に入れて渡してくれる。けれども心が欲する何かは、剥き出しのまま、ポンと私たちの前に落ちるだけである。それを入れる袋は、私たち自身の心の中にしか存在し得ないものだ。誰かが袋をくれるわけでもない、拾ってくれるわけでもない。自分で拾って、自分の袋に入れるしか方法はないのである。心のどこか片隅に、いつも「アボシカ」を持って生きていたいと思っている。
Directions: 次の文章の[一][二][三][四]を読んで、21~40の問いに答えなさい。答えは選択肢[A][B][C][D]からもっとも適切なものを1つ選びなさい。(2点×20=40点)
医者の前に座る患者は無力である。無力で哀れな存在である。患者の無力感を象徴するかのように、小さな、丸い腰掛けが置かれている。患者はこの上に腰を下ろさねばならない。(ア)、医者は堂々としている。権威のある、頼もしい存在である。あるいは、そういう存在でなければならない。医療というのは、今もなお、呪術的一面を残しているものだから、医者が無力で哀れな存在であれば、ショーバイっとまらないのである。それかあらぬか、医者はたいてい、肘付きの
堂々たるいすに座っている。いすのは、医者がこれに、手ないし肘をのせて、堂々と患者に対することを期待している。そもそもいすの肘というものは、医者の役割に対する社会的期待の象徴である。残念なことに、医者のいすはしばしば、くるくる回る子供っぽさをも兼ね備えている。患者のからだを多方面から観察、診療しているかと思うと、くるりと翻ってつくえに向かい、処方その他のビジネスに立ち向かわねばならない。ビジネスをせねばならあぬという状況そのものが、若干の幼稚さを医者のいすに強制しているのである。医者にとって気の毒なことは、いすが少しも安楽ではないことである。安楽というのはいすの大切な目的の一つであろうに、診療のためのいすは安楽ではない。安楽いすや揺りいすに座って、ずばり、診断を下すことは難しかろう。というわけで、正姿勢で患者と対面する。対面しつづけなければならない、ここのところが問題だ。患者は確かに哀れな腰掛けに腰を下ろしている。が、何分かの辛抱である。医者の方は、肘付きいすに何時間も縛り付けられていなければならない。何時間も同じ姿勢を取りつづけること。これが体に良くないことは自明である。自明のことを、からだの専門家である医者もやらなければならない。気の毒だと思う。私は気の毒だと思うけれど、世間には無情な人もたくさんいて、医者の平均寿命の長くないのをからかう人もいるという。いけないことである。一つには、権威である。もう一つは、安楽である。さらに、仕事ということがある。この三つの目的と、いすはかかわっている。三つのことを、同時に果たすことはきわめて難しい。医者のいすが示すとおりである。何も、一つのいすですべてを果たすことはない。歴史上、さまざまの文化の中で、いろんないすが現れては消えていった、今ふと、身の周りを見まわすと、いろんないすが声をあげて自己主張しているのに気づく。
Directions: 次の文章の下線のついた部分を中国語に訳しなさい。(3点×5=15点)
のついた部分を中国語に訳しなさい。(3点X5=15点)それぞれの学問にそれぞれ固有の対象領域があります。法律を扱う学間が法学であり、経済現象を対象とするのが経済学です。
もちろん、その領域をさらに細分化し、専門化していくこともできます。きわめて簡単に言ってしまえば、学間とは、一定の対象に関する普遍的な記述を与えることだと言ってもいいでしょう。
普遍的な記述が与えられることによって、われわれはその対象を操作し、支配することができるわけで、そうした実践性だけが学問の動機のすべてではありませんが、しかしそれを通じて学問は社会へと開かれているわけです。ここで大事なキー・ワードは「普遍性」ということです。つまり、
学問がある対象の記述を目指すにしても、その記述は、けっして記述する人の主観に左右されるものではなく、原理的には「誰にとってもそうである|ような仕方で記述されているのでなければなりません。
「わたしはこう思う!というだけでは、まったく不充分なのであって、「わたしにとってそうであるだけでなく、あなたにとっても、誰にとってもそうであるとわたしは思う」のでなければならない。しかもなぜそのように言うことができるのかを、論理的にということは、原理的には誰にも分かるような仕方で説明し、論証することができるのでなければなりません。そのことを、専門的な言い方では「反証可能性」と言います。すなわち、どのような知の言説も、同じ知の共同体に属する他の研究者が、同じ手続を踏んでその記述や主張を、再検討し、場合によっては、反論し、反駁し、更新するという可能性に対して開かれていなければならないということです。
このことは、理科系でも文化系でも同じことですが、大学で学ぶべきもっとも重要なことは、まさに自分の思考に反証可能な表現を与えること、そうしてそれを普遍性のほうへと開いていくことなのです。それは、自我の立場に立って考えるのではなく、普遍性の立場に立って考えるということです。しかし、それは、言うは易く、行うは難しです。どこかに端的に普遍的な立場などというものが存在しているわけではないからです。普遍性は、あらかじめ存在するものではなく、それに到達し、それを獲得することをわれわれが目指すべき地平のようなものです。その普遍性の方に向かって自分の認識や表現を開くことそれが、大学という場に課せられた使命であり、約束なのです。
Directions: 次の指示にしたがって、450字~500字の作文を書きなさい。
もし買えるとしたら、あなたは次のどちらを選ぶか。A:勤め先に遠いが、広くて立派な家B:勤め先に近いが、狭くて古い家AとBのどちらかを一つ選んで、その理由を作文に書きなさい。
- 自分でテーマをつけること
- 「だ・である」体で書くこと
- 漢字を使うべきところは漢字を使うこと