2019 年全国硕士研究生招生考试 203 日语真题
Directions: 次の文章を読んで、1~20の問いに答えなさい。答えは選択肢[A][B][C][D]からもっとも適切なものを1つ選びなさい。(1点×20=20点)
突然、警察官(1)「話を聞かせてください」と呼び止められたらどうするべきか。裁判官や弁護士として、多くの刑事事件にかかわった経験からいうと、任意同行は断ったほうが身のためだ。任意同行とは、警察などが捜査上必要な場合、被疑者に警察署等へ任意に同行し(2)ことである。普察官は普察官職務執行法第2条(3)、停止させての質問や管察署などへの同行を求めることができる。しかし同条3項(4)、本人の意に反して連行できない旨が定められている。つまり法的には逮捕されない限り、任意同行を拒否しても問題はないのだ。
Directions: 次の文章の[一][二][三][四]を読んで、21~40の問いに答えなさい。答えは選択肢[A][B][C][D]からもっとも適切なものを1つ選びなさい。(2点×20=40点)
民話の世界は民衆の心の世界と向かい合っている。これは言い換えると、次の二つのことを含んでいる。一つは、文字を読むことも書くこともできなかった民衆が自分たちの願いや喜びを語りにこめて、次の世代へ、更に次の世代へと伝えていったものが民話であるということである。文字をもたない人々の文芸であるということである。封建制の世の中において人々が本音を吐くということは、たいへん困難であっただけでなく、しばしば生命の危険を覚悟しなければならなかったことは言うまでもないだろう。自分たちの言いたいこと、願っていることがあっても、それを明確に表現することは機構的に閉ざされていた。人々は、建て前と本音とを区別し、使い分けることを(ア)学びとり、慣習化してきた。公の場所では、沈黙か、さもなければ建て前の言葉を口にするか、どちらかしかなかった。だから、この建て前の言葉から民衆を理解しようとしたら、それは民衆の本来の姿とはまったく違ったものにならざるをえない。本音の中にのみ、民衆の心は生きていたのである。そしてその本音と結びつくものの一つが、民話であったといってよいだろう。役人の前で御無理ごもっともというのは建て前の表現である。「熊は避けられるが、役人は避けられないからなア」というのは本音である。熊よりも役人の方が始末が悪いという実態をちゃんと見抜いているのである。だが、この実態の認識がそのまま民話につながるのではない。避けられぬ役人を何とかして避けてみたい、あるいはやっつけてやりたいという願望、これこそ口に出しては言わないが、本音の中の本音であろう。この本音の中の本音が、民話の世界につながる民衆の心の世界だと言いうる。「熊は避けられるが、役人は避けられないからなア」という実態認識の本音は、むしろ世間話につながる民衆の心の世界だと言いうるだろう。だから、世間話では、民衆の憤りや詠嘆はあっても、そこから抜け出す、あるいはそれを打ち倒す夢は語れていない。やはり民話は、実態認識のもう一つ奥にある本音の世界とつながっていると考えられる。
Directions: 次の文章の[一][二][三][四]を読んで、21~40の問いに答えなさい。答えは選択肢[A][B][C][D]からもっとも適切なものを1つ選びなさい。(2点×20=40点)
魚類には流れに逆らって泳ぐ習性があるようであるが、ことにコイの激しい水の勢いに向かって進む習性は著しい。古来、コイの滝のぼりとして賞美されるのは、それ自体のたくましさのほかに、人間の側にも同じような心理的傾向がどこか内在しているために、一種の心理的共鳴を起こして、特に感銘するのかもしれない。人間に限らず、そしてコイに限らず、なるべく抵抗の少ないところを選んで生きていこうとするのが生物として自然の本能と考えられるのに、明らかにそれと矛盾するようなこういう習性が見られるのは面白い。生きるという以上、完全に環境に順応しきってしまうことはあり得ず、必ずある程度は、それに逆らい、摩擦のあることを前提とするはずだとも考えられるのである。行動、活動、生きること自体が、作用と反作用を離れてはあり得ない。生きるものが独立した存在であろうとする限り、必ずある程度は環境と対立の関係にあると見るべきで、もし、まったく環境に抵抗しなくなったら、それはすでに生きることの停止を意味する。人間も絶えず環境との間に生ずる緊張を意識している。しばしばそれがもっとも具体的な生の意識になる。物理的な生きがいは、ほかのものに逆らった時に生ずる摩擦によって保証されるといってよい。なるべく余分なエネルギーは消費しないようにしようとする本能がある一方で、無為をきらい、積極的な活動をすることに喜びを覚える別の本能があって、両者が対抗している。しかし、われわれの生活のすべての面において、努力ということが尊重されるのは、すなわち環境順応の無為よりも、四囲の自然に逆らっていくことの中に、真の人間らしさがあることを公認しているものにほかならない。このことは、行動の次元にとどまらないで、当然、心理的な問題にも及ぶであろう。何もしないでじっとしていることが身体的にもっとも楽であるように、外界の事象、表現をそのまま無抵抗に受け入れ、これに反発したり、批判を加えたりしなければ、精神はもっとも自然な状態で平安を維持できるはずである。もし、われわれが、こういうことのみを好むようであれば、人間はみな環境の奴隷になってしまうであろう。自然の支配はおろか、人間としての自主性さえ弱める。(ア)、幸いなことで、そういう無抵抗の受容が十分に満足できないようにできている。むしろ与えられたものに逆らうときの抗性に快感を覚える習性があるのである。
Directions: 次の文章の[一][二][三][四]を読んで、21~40の問いに答えなさい。答えは選択肢[A][B][C][D]からもっとも適切なものを1つ選びなさい。(2点×20=40点)
何の違いもない二つの教室。同じように前を向いて並んだ子供たちが思い思いに自習している。部屋の大きさや形、席の数や配列、どこをとっても何ら変わりはない。ただ一つの違いは、第一の教室では監督が前から睨みをきかせているのに、第二の教室では後ろにいる、いや、いるらしいとしか分からないという点にある。たったこれだけの違いが生徒たちの行動様式に根本的差異を生じさせると言えば、大げさに響くだろうか。遊びたい盛りの子供たちにとって、第一の教室は厳しい環境のように見える。気ままに席を立って遊ぼうにも、ちょっと顔を上げれば監督と視線を合わせることになるのだから。しかし、そんな環境でも、慣れてくればそれなりの抜け道を見つけることができる。机の上に立てた本の陰でイタズラ書きをしたり、隣の子とおしゃべりしたり、監督がちょっと目を離した隙にかなり派手なイタズラをすることだってできる。監督の目が届きにくい教室の周縁部ともなると、要領のいい悪童達がけっこうよろしくやっているようだ。休み時間になって監が席を外すと、そんな連中の内、とりわけいたずらな子が監督席に座って面白おかしく監督のまねをしてみせるだろう。それを見て笑い転げる子供たちの顔に生き生きした遊戯の歓びを見てとるには、ほんの一階で十分である。第二の教室ではどうだろうか。一見したところ、ここは第一の教室よりも随分自由な感じがする。事実、少々サボって手遊びをしたりしていても、後ろから叱声がとんでくる気配はない。どうやら、ちょっとした遊戯は黙認されているらしいのだ。だんだんいい気になり、派手なイタズラを考えるうち、しかし、子供たちはなんとなく背後が気になり始める。もしかしたら、僕は後ろから目をつけられているんじゃないだろうか。それを確かめようにも、振り向くことだけは決してできないようになっているのだ。したがって、監督が一体今そこにいるかさえはっきり分からないのだが、その不在の視線はやがて確実に子供たちのうちに内面化されていき、一人一人が自分自身の監督の役割を引き受けることになるだろう。徹底した相対評価システムがそれに輪をかけるように作用して、教室を絶えざる自主的相互競争の場に変えていく。事態をいっそう救いのないものにするのは、この場が空間的にも時間的にも均質に広がっているということだ。実際、第一の教室と違って、この教室には周縁部がない。監督の視線の位置が確定されない
ということは、それがあらゆる位置に偏在しているのと同じことである。また、決まった休み時間があるわけでもない。ふだんから、放任して自由にやらせているのだから、取り立てて休み時間など作る必要はないというわけだ。ここでは、子供たちは、遊戯の自由を与えられているにもかかわらず、いや、まさにそうであるがゆえに、その自由を思うままに行使できないという仕組みになっているのである。
Directions: 次の文章の[一][二][三][四]を読んで、21~40の問いに答えなさい。答えは選択肢[A][B][C][D]からもっとも適切なものを1つ選びなさい。(2点×20=40点)
美しい言葉とか正しい言葉とか言われるが、単独に取り出して美しい言葉とか正しい言葉とかいうものはどこにもありはしない。それは、言葉というものの本質が、口先だけのもの、語彙だけのものではなくて、それを発している人間全体の世界をいや応なしに背負ってしまうところにあるからである。人間全体が、ささやかな言葉の一つ一つに反映してしまうからである。そのことに関連して、これは実は人間世界だけのことではなく、自然界の現象にそういうこともあるのではないか、ということについて語っておきたい。京都の嵯峨に住む染色家志村ふくみさんの仕事場で話していた時、志村さんがなんとも美しい桜色に
染まった糸で織った着物を見せてくれた。そのピンクは、淡いようでいて、しかも燃えるような強さを内に秘め、華やかでしかも深く落ち着いている色だった。その美しさは目と心を吸い込むように感じられた。「この色は何から取り出したんですか。」「桜からです。」と志村さんは答えた。素人の気安さで、私はすでに桜の花びらを煮詰めて色を取り出したものだろうと思った。実際はこれは桜の皮から取り出した色なのだった。あの黒っぽいゴツゴツした桜の皮からこの美しいピンクの色が取れるのだと言う。志村さんは続けてこう教えてくれた。この桜色は、一年中どの季節でも取れるわけではない。桜の花が咲く直前のころ、桜の皮をもらってきて染めると、まるで絵のような色が取り出せるのだという。私はその話を聞いて、体が一瞬揺らぐような不思議な感じに襲われた。春先、もう間もなく花となって咲かそうとしている桜の木が、花びらだけではなく、木全体で懸命になって最上のピンクのになるうとしている姿が、私の脳表に揺らめいたからである。花びらのピンクは、幹のピンクであり、樹皮のピンクであり、横液のピンクであった。桜は全身で春のピンクに色づいていて、花びらはいわばそれらのピンクが、ほんの先端だけ姿を出したものにすぎなかった。考えてみればこれはまさにそのとおりで、木全体の活動の神髄が春という時節の花びらという一つの現象になるにすぎないのだった。(ア)我々の限られた視野の中では、桜の花のピンクしか見えない。たまたま志村さんのような人がそれを木全身の花として見せてくれると、はっと驚く。このように見てくれば、これは言葉の世界での出来事と同じことではないかという気がする。言葉の一語一語は、桜の花びら一枚一枚だといっていい。一見したところ全然別の色をしているが、しかし本当は全身でその花びらの色を生み出している大きな幹、それを、その一語一語の花びらが背後に背負っているのである。そういうことを念頭に置きながら言葉というものを考えるという必要があるのではなかろうか。そういう態度をもって言葉の中で生きていこうとするとき、一語一語のささやかな言葉の、ささやかさそのものの大きな意味が実感されてくるのではなかろうか。それが「言葉の力」の端的な証明でもあろうと私には思われる。
Directions: 次の文章の下線のついた部分を中国語に訳しなさい。(3点×5=15点)
のついた部分を中国語に訳しなさい。(3点✕5=15点)今、環境問題が急にクローズアップされてきた。
友人が今から30年ほど前に、「今に東京はゴミで埋まってしまうから、皆で気をつけるべきだ」とか「このままでいくと地球の緑はなくなってしまい。人間はもちろん、地球上には生命体が棲めなくなる」と言っていたときは、「何て大げさなやつだ」と私は思っていた。それが公害問題で一気に脚光を浴び、少し私も注目することになった。
その後、石油資源がれる心配が出、そして自動車の排気ガスで大気が侵されたりして、温暖化へとひたすら人間が住むに適さない地球の状況が出てきた。その友人は一貫してこの問題をやってきたので、かなり有名になっている。私は古代を専門としているせいか、そうした人たちに比べると実感は薄いと反省している。
どうして国連が乗り出すほど地球規模で環境問題が語られるようになったのだろうか。もちろんこのままで行くと、近い将来地球上に人は住めなくなる危機感からであろうか、どうもよく見ていると、それを予感して、叫んでいるのは発展途上国ではなく、先進国が中心になっているように見える。これは先進国のエゴだと発展途上国の人たちは思っているのではないだろうか。自分たちはもういいとこまで開発したから、この辺でやめようといっているので、私たちはこれからなのにずるいと思っているのではないだろうか。
もちろんこの世の中、何でもかんでも平等、公平である必要はないだろうが、ここのところを原点に考えていかないと、いくら国連規模で考えたって、言したって何の効果もないに違いない。
あるところで環境問題を考えるシンポジウムがあった。私までも呼ばれて出席したのだが、そこでNGOのほうが「環境問題はみなさん一人一人の問題です。生活の中でできることからやっていきましょう」と発言された。まったくそのとおりであろうと思うが、そのシンポジウムが開かれた都市の人口は40万人いるのに、その会場へ集まった人は500人しかなかった。もちろん運動というのはそういった末端からやっていくものなのだが、その会場へ来た人はきっと、すでにそういった問題意識を持って実行しているからそこへやってきたのだろうと思う。
Directions: 次の指示にしたがって、450字~500字の作文を書きなさい。
中国語には「人生规划」という言葉がある。あなたは自分の人生にどんな計画を立てているか、それを作文に書きなさい。
- 自分でテーマをつけること
- 「だ、である」体で書くこと
- 漢字を使うべきところは漢字を使うこと