2023 年全国硕士研究生招生考试 203 日语真题
Directions: 次の文章を読んで、1~20の問いに答えなさい。答えは選択肢[A][B][C][D]からもっとも適切なものを1つ選びなさい。(1点×20=20点)
風薫る五月、青葉若葉の季節といわれ、一年の中(1)もっともすがすがしい時期といえる。だれもが野の香りを愛し自然の美しさに気をうばわれ、一句を口ずさむといった風流な気持になるころといえる。ところが、この時期は風流心どころではなく、思い悩む人が一気に増える(2)特徴的だ。それは五月病といわれるものだ。一般的に五月病(3)、かつては学生、特に大学入学後に多くみられたものであったが、(4)近ごろは様変わりをしたようで大学生特有の病気ではなくなってしまったようだ。ひと昔前(5)大学入学後の学生が理想とかけ離れた学園生活に失望して精神的に滅入ってしまい、(6)に似た症状を示すものを総称したものであった。本格的にまじめ、神経質な人に多く、ただ、有名大学入学だけを目標にして将来のことが明確でない者が五月病の元祖だ。大学へ入った(7)人生の目標が終わってしまい、自失の状態になるとても不思議な現象は日本独特のものだろう。学生病であったものが、このところ、職場、家庭にまで発生しているという。それもかなりの数にの
Directions: 次の文章の[一][二][三][四]を読んで、21~40の問いに答えなさい。答えは選択肢[A][B][C][D]からもっとも適切なものを1つ選びなさい。(2点×20=40点)
正しい理解のために必要なのは、場面を共通にすることであった。場面の共有のためには、まずこちらが相手の立場になってみることが必要である。事柄は複雑多岐である。その事柄をお互いに違った面から見ていたのでは意見の一致はない。相手がどういう立場で、どういう態度で、事柄のどの面を見て
いるかをまず考えてみることが必要である。議論を聞いていると、一方が自分の立場で事柄の一面を見て論じているのに、他方は異なった立場で事柄のほかの面を見て反論し、お互いに一歩も譲らず論じ合っている場合がよくある。こういうのを水掛け論と言う。(ア)、揚げ足取りということがよく行われる。これは相手の言葉の一部分を取ってその非を攻撃するのである。相手の立場に立って聞くということは、相手を包む場面を理解することである。言葉の一部分を取るということは、場面を無視して、その言葉だけを取ることで、正しい言葉の受け取り方ではない。相手の立場は相手の言葉の全体を聞いて初めて理解できるのであり、文脈を無視して一部分の言葉だけを取るならば、相手の言わんとすることをどういうふうにでも曲げて取ることができるのである。文脈を理解するということは、言葉の連なり全体の奥に、相手の言わんとすることをつかむことである。なお言葉の文脈ばかりでなく、言葉に現れていない場面をも考慮に入れて、相手の発言を理解してやることが、いっそう親切であり、いつそう正しい理解ができることとなる。この場合、そういう場面をも含めて文脈と言う人があり、そういう理解を文脈的理解と言っている。さて、事柄の理解は相手の立場に立って、事柄を見ることをもって終わらない。次には自分の立場から事柄を直視することが必要である。この場合には自分の過去の体験がもとになり、自分の素養、自分の才能が基礎になって事柄を見ることになる。こうして自分の見た事柄と、相手の立場から見た事柄とを比較することから批判が生まれる。批判的に話を聞いたり批判的に書物を読んだりすることは、水掛け論や揚げ足取りとは違って、あくまで事柄自体を正しく理解するための自他の見方の対決なのである。批判のない読み方や聞き方は、他人の目で事柄を見るだけで、いつまでたっても自己の主体性を確立することができない。
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日本人と「物」との関係を考える上で、一つの鍵となるのは、「もったいない」という感覚である。「もったいない」というのは考えてみると不思議な言葉で、物を捨てる人に対して、「もったいないことをする」という場合は、「不都合な」という非難がこめられているが、誰かに物をもらったときに、「もったいないことで」と言うときは、「かたじけない」という感謝の意味である。何だか、まったく反対の意味に使われるように感じられる。日本人の考え方は主体と客体、物と心などを明確に区別しないままで、そのときの文脈に応じて適当な判断を加えているので、こんなことが生じるのであろう。昔は、食べるものが少なかった。しかし、そのためにかえって、五月の節句の柏餅のおいしかったことなどは、今でも忘れられないほどである。家で餅をつき、柏の葉を山で取ってきて、家族一同で柏餅をつくって食べる。おいしくないはずはない。ここでは、心と物との区別以前の感覚が働き、食べることによって「味わう」ことは、実に「豊かな」内容をもっている。しかし、このようなことが可能だったのは、昔は適当に物が不足していたからである。ところが、最近では物が豊かになり、それによって人間の生活は快適で便利になった。しかし、それを得るためには人間は働かねばならない。働くためには節約しなければならないし、疲れるので、なるべく心を余計なこと-といっても、ほんとはこちらの方が大切なのだが一に使わないようにしようと思う。そうなると、家庭の食事を家族で楽しむ、ということがなくなって、「貧困な食事」になってしまうのではなかろうか。心と物を分離した後で、今度は、物が心を圧迫している、というのが現状ではないだろうか。むしろ、物が心を操作しているとさえ言えるのではなかろうか。心と分離した物は計測することが可能である。重さ、大きさ、などなど。それに貨幣価値ということによって、すべての物が直線上に価値づけられる。料理にしろ、その値段ということによって計測するかぎり、すべてが上から下まで一様に順序づけられる。すべてが一様とは、色合いの差がない、ということだ。値段によって計測されると、すべての物は灰色になってしまう。しかし、「味」というものはそんなに単純ではない。同じビールでも、いつ誰と、どこで飲むかによって味は異なるはずである。各家庭の料理は、その家庭の味をもっている。「経済的に豊か」ということに、人々がこだわり始めると、その人は「味オンチ」になってしまう。「物が豊か」ということは、その色合い、味わいの多様性に気づくことではないだろうか。このように考えると、現代は、ほんとうに、物が豊かなのかどうか危うくなってくるのである。
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人は食べずには生きていけない。そして食べるためには、食べるものを作らなければならない。狩猟民や採集民にしても、獲物や採集物を、調理もせずに食べるのはまれであろう。調理は、人間生活におけるもっとも基礎的な行動であることは疑いない。が、この調理という営みに、奇妙なことが起こっている。独身の人たちにかぎらず、料理をしない人が増えてきたというのは、正確な数字情報はもっていないが、コンビニエンス・ストアやデパートの地下の食料品売り場、あるいは夜の居酒屋などの風景を見るかぎり、どうも確かな事実のようである。昼休みともなると、みずから調理したお弁当を開ける人はさらに少なくなる。ほとんどの人が社員食堂に行くか、弁当を買いに行く。パンやスナック菓子ですませる人も少なくない。作らないということは、食事の調理過程を外部に委託するということだ。調理を家の外にだすということ、そのことの意味は想像以上に大きいように思われる。たしかに、むかしは調理も公共の場で、たとえば露地の共同炊事場で行われることが多かった。その後料理の仕事は「マイホーム」に内部化されたのだが、現在ふたたびその過程が、私たちからは見えない場所に移動させられつつある。それはちょうど、かって排泄が野外や共同便所でなされ、汲み取り(掏)も私たちの面前でなされていたのに、下水道の完備とともに排泄物処理が見えない過程になったのと同じことである。それとほぼ平行して、病人の世話が病院へと外部化された。出産や死という、人生でもっとも逃れることのできない瞬間も家庭の外へと去った。家で母親のうめき声を聴くことも、赤ちゃんの噴きだすような泣き声も聴くことはなくなってしまった。いや、自分の身体でさえ、もはや自分でコントロールできず、体調がすぐれないときには、すぐに医院に駆けつけるしまつだ。自己治療、相互治療の能力はほぼ枯渇した。その点で、身体はもはや自分のものではない。誕生や病や死は、人間が有限でかつ無力な存在であることを思い知らされる出来事である。同じように排泄も、自分がほかならぬ自然の一メンバーであることが思い知らされる営みである。そういう出来事、そういう営みが、「戦後」という社会のなかで次々に外部化していった。そして家庭内に残されたそういう種類の最後の営みが、調理だった。人は調理の過程で、自分が生きるために他の命を破壊せざるをえないということ、そのときその生き物は渾身の力をふりしぼって抗うということを、身をもって学んだ。そして自分もまたそういう生き物の一つでしかないということも。そういう体験の場所が今じわりじわり消えかけている。見えない場所に隠されつつある。このことが私たちの現実感覚にあたえる影響は、けっして少なくないと思う。
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山の七合目の分岐点で帰りのケーブルカーとすれ違うと、あとは窓にしだいに明るい空の分量が占められてくる。やがて上の駅のホームが近づいてきた。山頂の展望台に行くと、弟はまたそこでハーモニカを鳴らした。わたしは高いところが苦手なので、天辺の限られた面積を歩いていると、空に踏みはずしそうになる足の感じを恐れた。「見て、見て。」と崖のところで弟が水平に手を広げて呼んだ。「姉さん、見てごらん。」彼は広げた両手を水平に、羽ばたくまねをして、「ぼく、鳥になろうか。」「危ない。」わたしはずうっと後ろのほうから、声ばかり大きくして叱りつけた。昼近くなる頃にはそれでも山頂は登山者でだいぶにぎやかになった。展望台の裏の人気のない草地に腰を下ろして、わたしたちは弁当を開いた。包みを開けると祖母の作った握り飯が出てきた。たぶん祖母はたいへん慌てて作ったのだろうが、そのことを差し引いても、やけに大きい凸凹のお握りは彼女の手つきの不器用さを物語っていた。おかずは煮しめである。急いでいたので朝ご飯の副菜をそのまま詰めたのだろう。そして祖母は肝心の箸を入れ忘れていたのだった。「どうする。」わたしは弟を見た。「ぼく、箸作ってみようか。」彼はズボンのポケットから鞘の少し錆びた小刀を出して見せた。
それで、わたしたちは弁当をまた包み直すと木陰に置いて、山頂の裏手の林へ行った。彼は歩きながら箸を削る木を物色した。彼は一本の柿の木を見つけると幹を登った。片腕を幹に回し、もう片腕を伸ばして適当な枝を折った。彼はそれを見上げているわたしの足もとへと三、四本降らせた。柿の木の根方にあぐらをかいて、弟はまるで祖父そっくりの器用な手つきで枝を削った。丁寧に丁寧に削いだ二本を、「はい、姉さんのぶん。」とわたしにくれた。それからまたそろそろと慎重に削いで、「これは、ぼくのぶん。」と、草の上に置いた。長さがみんな少しずつ違う、なま木の色をした箸ができた。わたしたちはそれを持ってもとの展望台のところへ帰ると、弁当を食べた。彼の削った箸はごつごつしてわたしの指を傷めそうだったが、それでも口へ運ぶたびに木のかすかな匂いがした。「これ、持って帰ろうか。」とわたしが言うと、弟はお握りをほおばりながら、「いいから捨てといて。」と首を振った。「また、いつでも作ってやるよ。」満足そうに言うのだった。弁当を済ませると、わたしたちは草の上に寝た。明るい空の色が閉じた瞼の裏に映った。鳥の声や蝉の声が耳に流れ込んだが、それはわたしに眠たいような、うっとりした気分を催させた。わたしたちは少しの間ほんとうに午睡した。
Directions: 次の文章の下線のついた部分を中国語に訳しなさい。(3点×5=15点)
のついた部分を中国語に訳しなさい。(3点¥5=15点)
元来、文字というものはどこにでも当てはまるもの、一般的なものです。葉という字は松葉にも杉の葉にも、銀杏やアスパラガス(芦笋)の葉にも当てはまります。家という字は私たちが電車から眺める一つ一つ違ったどの家にも当てはまります。赤とか緑とか、長いとか短いとかいう字もいろいろなものに適用できます。このように、一つ一つはユニークな、唯一独自なものを表そうとするのです。
それからまた、文字は固定したもの、不動なものです。それを用いて、人は動いているもの、空気のようなものを示そうとするのでありますが、それはほんとうは無理なことであり、はっきり言えば、できないことであります。それはちょうど、網の目をどんなに細かくしても、水の流れは掬えないのと同じであります。にもかかわらず、それをしなければ、私たちは自分の思想を他人に伝えることができません。
もっとも、別の方法で思想を伝えることもぜんぜん不可能ではないかもしれません。いわゆる以心伝心、つまり直接に心に伝えるということも、可能であるかもわかりません。しかし、書物はそのことを文字と文章とによってしようとするのです。したがって、そのことを
読者の側から言えば、本を読むとは、書かれている文字をたどることではなく、文字を手がかりとして、その奥に潜んでいるものをつかむ字をたどることではなく、文字を手がかりとして、その奥に潜んでいるものをつかむことであるということになるのです。イキリスの思想家ラスキンは読者をつるはし(洋)をふるって金鉱を求めてゆく抗夫にたとえております。
そして、奥にある金鉱に達するためには、外側にある固い鉱石を打ち砕かなければならないと申しております。ともかく、文字という固い、不動なものを突き抜いて、その奥にある動的な、というよりも燃えていると言ったほうがいいと思われる思想そのものをとらえねばならないのです。
Directions: 次の指示にしたがって、450字~500字の作文を書きなさい。
ネットでの資料調べが便利になったのは進歩である。しかし一方では、以前のように苦労して論文を作成せず、ネット資料の切り貼りだけで済ましてしまう現象が問題になっている。こうした現象について、あなたの考えを書きなさい。
- 自分でテーマをつけること
- 「だ・である」体で書くこと
- 漢字を使うべきところは漢字を使うこと